人には忘れてはいけない想いと忘れたい過去がある
「俺は牛丼っと。北川は?」
「う〜ん、俺も牛丼で。」
「わたしはBセット。」
食堂でのいつものやりとりである。ところがその日はここからがいつもとは
恐ろしいほど異なっていた。
「名雪は?」
「う〜〜〜・・・わ、わたしは・・」
名雪の体が震えている。そういえば顔もこわばっているようだ。
「わ、わたしもBセット!!」
し〜〜〜〜ん
4人の間で一瞬時間(とき)がとまった。
そして、
「ええええええええええええ!!!!!」
食堂じゅうに俺の絶叫が響き渡る。
「・・・名雪が昼食にイチゴムースを食べないなんて・・・
さてはお前偽者だな!!」
名雪のほっぺたをひっぱってみる。
「いたいよ〜〜祐一〜〜」
ん・・この弾力・・本物くさいが・・
「だまされちゃだめよ!相沢君!そいつは甲賀の隠密にちがいないわ!!」
香里までがそんなことを言う。
「なるほど、水瀬さんはケムマ○で相沢はハッ○リ君と言うわけか・・・」
さすが北川。実にナイスな例えだ。
「う〜〜。ひどいよみんな〜。わたしは本物だよ。」
「ふふん、あくまでもしらを切りとうすつもりだな。ならば、本物と言う証拠を
みせてもらおう。本物ならば秋子さんの謎ジャムを食べられるはずだ!!」
「偽者でいいよ。」
即答。
「どうやら本物のようね。」
俺と香里はその答えの速さに確信した。
唯一北川だけが不思議そうな顔をしていたが、こいつには今度水瀬家でパーティー
でもするときに身をもって知ってもらおう。
「さて、本物の名雪とわかったところで・・
どうして今日はAセット、もといイチゴムースを頼まないんだ?」
「それは・・・」
俺たちは三人とも名雪の話に集中した。
「昨日の夕方・・」
ふんふん。
「祐一といっしょに帰っているときに・・・」
ほうほう。確かにいっしょに帰ったな。
「ネコさんをみつけたんだよ。」
あ〜いたいた。
「さわろうとしたら祐一に止められて・・」
止めた止めた。
「でもすごくさわりたかったから祐一にさわらせてって頼んだら・・」
そうそう。名雪の奴必死に頼んできたな。
それから俺どうしたんだっけ?
「そしたら祐一が『よし、ならば1週間イチゴ類を口にしなかったら
ネコでも犬でも好きなだけさわらせてやろう』って・・・」
ああ、言った言った・・・ってええっ!!
「なんだ相沢君が原因じゃない。」
そういえば名雪の奴今朝イチゴジャムじゃなかったな・・
な、なんか俺が悪人みたくなってきたぞ。
「いや・・・実はあれは・・そ、そのネコが言ったんだ。」
なんじゃそら。我ながら寒い言い訳である。
「ええっ。そうだったの?」
だまされる奴もいるが。
「そんなわけないでしょう。名雪、あなた相沢君に
おちょくられてるのよ。」
「そうだ、相沢。お前は鬼だ、悪魔だ、鬼畜だ。」
なぜそこまで言われなければならんのだ・・・
俺はだんだん意地になっていった。
「いや、俺は本気だぜ。もし名雪がほんとに1週間イチゴを
食べなかったら、ペットショップにいるネコというネコを全部
買ってきてやろう。」
「ほんと!!」
「ああ、ほんとだ。武士に二言はない。」
「ふ〜ん、おもしろそうね。名雪がんばりなさいよ。」
「うんっ。ふぁいとっだよ。」
名雪は自分に気合を入れていた。
まぁ、気合じゃあ名雪のイチゴ好きは克服できまいて。
くっくっくっく・・
「相沢。それじゃお前武士じゃなくて悪代官だぞ。」
「・・・ナレーションにつっこむな。北川。」
「ただいま・・・」
「おかえりなさい、名雪。今日は遅かったのね。」
たしかに、名雪が部活から帰ってきたのはいつもより1時間も遅かった。
俺と真琴も玄関まで出て行く。
「よ、名雪。あんまり遅いんで真琴がお前の分のからあげ食べようとしてたぞ。」
「なによぅ、祐一から食べちゃおうって言ってきたんじゃないの。それにわたしは
食べてないけど祐一はほんとに食べちゃったくせに。」
「心配するな。あれは名雪のじゃなくてお前のヤツだ。」
「え、うそっ!!」
真琴があわてて台所に戻っていく。ちなみに俺のからあげは隠してきたので
仕返しされる恐れはない。
「祐一さん。」
ふいに秋子さんが俺の名前を呼んだ。
しまった。秋子さんの前でつまみぐいの話はまずかったか。
「名雪の様子がおかしいんですけど・・学校でなにかあったんですか。」
「すいません、あんまりおいしそうだったんで・・ってええっ?」
どうやら違ったらしい。
「名雪の様子がおかしいのはいつものことだと・・」
そう言って俺は名雪をよく見る。
・・・確かに変だ。
玄関の天井を見上げてぼ〜っとしている。
名雪はいつもぼ〜っとしているのだがこれは一味違うようだ。
まず、目が死んだ魚の目をしている。
「イチゴ・・・ネコさん・・・イチゴ・・・」
なにかうわごとも言い始めた。
こ、怖い・・
この名雪をビデオにとって北川に送ってやれば次の日ダビングしてきて必死に
誰かに見せようとするだろう。
「おいこら、起きろ!貞子!」
「貞子?」
「まちがいました。おい名雪、こっちの世界にかえってこいって。」
「うにゅ。」
「うにゅ、じゃなくって。」
普段ならかわいい「うにゅ」もこの状態では気持ち悪い。
「おーきーろー!!」
俺は名雪の体をゆすってみる。
「うー地震だおー。」
か、かわいくない・・・
このお約束の台詞が似合わない名雪なんて佐々木のいない横浜みたいなもんだ!!
(バースのいない阪神でも可)
「起きてくれぇ〜」
「うーん・・」
しばらく体をゆすっているとやっと名雪の目に生気が戻ってくる。
「・・あれ?ここ玄関・・」
「おう、お前の家だ。」
「・・イチゴは?」
名雪はしばらく不思議そうに周りをきょろきょろ見回してから言った。
「は?イチゴ?」
「さっき玄関のドア開けたら一面イチゴだらけだったんだよ〜」
いやな玄関だな。
「よっぽどお腹すいてたのね。今晩のデザートはイチゴにしようかしら。」
「うんっわたしいっぱい食べ・・」
「おっ、食べるのか?名雪?」
俺に言われて名雪ははっとした顔をした。
「・・ない。わたし食べないよおかあさん。」
「あらそう?せっかくすごくおいしいのが手に入ったのに・・」
「うー・・」
名雪は半泣きになっている。
そんな名雪の様子に首をかしげながら秋子さんは台所に帰っていった。
「ほう、よく耐えたな。」
「ネコさん抱くためなら、こ、これくらい平気だもん。」
名雪は半泣きのまま強がりを言う。
この様子なら1週間どころか二日ともたないな。
その日の夕食もなにごともなく終わり、(秋子さんは
よだれをたらしながらイチゴをがまんする名雪を不思議がっていたが)
だらだらとテレビをみてから俺はベットに入った。
そして・・
俺がうとうとしているといつもどうりのイベントが始まった。
ギ・ギ・ギ・ギ・ギ
「くすくす・・」
真琴だ。
芸のないやつめ・・・
正直、真琴のワンパターンな攻撃にはうんざりしていた。
一度うけたからといって同じネタを何度も続けるとは
芸人失格である。
よって、今回は完全に無視することにした。
いわゆる「ボケ殺し」というやつである。
やがて・・
べちょっ
なにかが顔にかかる。
「あははは・・」
真琴は去っていった。
・・なんだこれ?
いままでの経験上食べ物であることは間違いない。
俺は顔をぬぐいそれを口に入れてみる。
・・甘い。
かつ微妙にすっぱいこの味は・・
俺は体をおこし電灯をつける。
これは・・
「イチゴジャムだお〜」
ふいに近くで名雪の声がした。
声のした方を向くと確かにドアのそばに名雪が立っている。
これが夜這いに来てくれたのならどれだけうれしいことか・・
が、しかし名雪は着ているものはパジャマだが、
右手にはナイフ。
左手にはフォーク。
そしてその目は貞子。
俺は一瞬にして危険を感知した。
「ていっ!!」
手についていたジャムを名雪めがけて投げつける。
べちゃっ
ジャムはうまい具合に名雪のほほにヒットした。
「イチゴ〜」
名雪はそのジャムを手にとって舐めだす。
「おいしい〜」
俺は舐めるのに夢中になっている名雪の横をすばやくぬけると
自分の部屋を脱出した。
階段を駆け降り台所にむかう。
名雪は極度のイチゴ不足から乱心したのだ。
(といってもまだ1日足らずだが)
ならば、名雪が満足いくまでイチゴを食べさせてやるしかない。
冷蔵庫の前に急ぐとその扉を開く。
ところが・・
「ないっ!?」
イチゴジャムの瓶がないのだ。
違う棚も探してみるがイチゴの瓶はない。
「あっ!!」
俺は自分の犯した致命的なミスに気づいた。
イチゴジャムは真琴がいたずらに使った→そして真琴はそのまま眠った
→イチゴの瓶は真琴の部屋
台所に来てはいけなかったのだ!!
俺はすぐさま真琴の部屋に行くため廊下に出ようとした。
しかし・・
ギッ・・ギッ・・ギッ・・
暗闇の先、階段の方からゆっくりと降りてくる足音が聞こえてくる。
「ひとつ積んではジャムのため〜ふたつ積んではネコのため〜」
恐山のイタコかい・・
もはや逃げ場はないようだ。
どっどどどどうする!?
このままでは名雪に食われてしまう。
別の意味では大歓迎だが。
ってそんな余裕はないんだって!
俺は夕食のデザートのイチゴを残しておかなかったことを
激しく後悔した。
こんなことなら名雪の前でみせびらかして20個も食べたあげく
『甘いものは嫌いなんだよな〜』とか言わなきゃよかった・・
ギッ・・ギッ・・
そんな事を考えている間にもどんどん足音は近づいてくる。
俺は恐怖のあまり自然と台所の隅へ隅へとあとずさっていった。
ついに背中が流しにぶつかる。
・・ん?・・流し?
振り向くとそこには水道の蛇口が。
顔を洗おう!!
なんで気づかなかったんだ俺!!
俺はあわてて蛇口に手を伸ばす。
その時、
ガシッ
横から別の手が出てきて俺の腕をつかんだ。
俺には横を向かなくてもそれが誰の手かよく分かっていた。
「わたしのイチゴだおー」
「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
次の日の朝、俺は秋子さんに台所の隅で体育座りをして
ふるえているのを発見された。
あのあと俺の身になにが起こったか俺自身もおぼえていない。
いやむしろ記憶から無理やり消したのだろう。
人には忘れてはいけない想いと忘れたい過去がある。
この話は間違いなく後者だろう。
終わり
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